なぜ大日本帝国憲法は軍部の暴走を許し得たか
首相、内閣の文字が登場しない明治憲法
大日本帝国憲法(以下明治憲法)には首相の地位が規定されてない。内閣という表現も出てこない。
首相以下、国務大臣は天皇陛下を輔弼(ほひつ)つまり補佐する存在に過ぎない。
では明治憲法下で、首相(総理大臣)とはどのような存在だったか。
元老(維新直後の政治家)の推薦に基づき、天皇陛下から任命を受けた者が首相となり、国務大臣を選任する。首相とは国務大臣のうちの一人。ただそれだけの存在だった。
明治憲法の起草に関わった初代内閣総理大臣、伊藤博文は、
「内閣および首相の力が強すぎると、天皇大権を侵しかねない」
と考えた。尊王攘夷で沸いた明治維新直後の時代背景を考えると真っ当な意見であると言える。
統帥大権とは何か
一方、明治憲法は軍を次のように定めた。
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
主語はいずれも「天皇」である。指揮するのも、編成と予算を決めるのも、戦争・和平・条約締結も全て天皇が権限を持った。
この点も、先の首相・内閣同様、時代背景を考えると理屈に合うと言わざるを得ない。しかしここで明治憲法の盲点を突く屁理屈屋が現れた。
統帥権干犯問題の屁理屈
昭和5年(1930年)、日本は米英相手に海軍軍縮条約を締結した。いわゆるロンドン条約である。これに海軍が屁理屈をこねたのだ。
政府は明治憲法(11~13条)に定める統帥大権を犯している
これが統帥権干犯(とうしけんかんぱん)問題である。言われて見ればその通りのようにも思えるが、単なる屁理屈だろう。
三権分立ならともかく、四権分立などありえない話だ。
しかし軍部は明治憲法が内閣・首相を規定しないのを良いことに、統帥大権の独立を主張し続けた。時に満州事変(1931年)、支那事変(1937年)へと進む時代である。
軍部は独断で走り出す。後戻りすることは出来ないのである。
【この記事の執筆者】
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◆プロフィール
奈良県橿原市 1975年生まれ
奈良県立畝傍高校卒 / 同志社大学法学部卒
◆奈良県橿原市議会議員/井ノ上剛(いのうえごう)公式サイト
◆介護職員実務者研修修了
◆社会保険労務士、行政書士
(執筆の内容は投稿日時点の法制度に基づいています。ご留意ください。)
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