大日本帝国憲法の歴史的意義
教科書で否定される大日本帝国憲法
ここに平成29年度帝国書院、中学公民教科書を引用する。
【明治憲法】 | 比較内容 | 【日本国憲法】 |
欽定憲法(天皇が定める) | 性格 | 民定憲法(国民が定める) |
天皇 | 主権者 | 国民 |
元首 | 天皇の地位 | 象徴 |
法律の範囲内で認められる | 国民の権利 | 全ての人間が生まれながらに持つ権利として保障される |
男子の兵役、納税、(教育) | 国民の義務 | 普通教育を受けさせる、勤労、納税 |
天皇の協賛期間 | 国会 | 国権の最高機関、唯一の立法機関 |
各大臣は天皇を助けて政治を行う | 内閣 | 国会に対し連帯して責任を追う(議院内閣制) |
天皇の名において裁判を行う | 裁判所 | 司法権の独立 |
軍が通常の行政から独立 | 軍隊 | もたない |
教科書文中では、大日本帝国憲法を日本国憲法と比べて、「民主的な憲法としては不十分な面もあった」と綴る。
現代護憲派の主張は、日本国憲法=100点、大日本帝国憲法=0点との偏向的な見方が強いが、果たしてそのような単純な議論で良いか。
もちろん改憲議論の中で、「大日本帝国憲法へ回帰する」などという議論はもっての外の暴論である。ここで私が主張したいのは大日本帝国憲法に「0点(悪)」であるとのレッテルを貼ることが、日本史の観点から考えて何の意味をもなさない、という事である。
大日本帝国憲法制定の経緯
大日本帝国憲法は1889年2月11日発布された。列強の開国要求に抗った明治維新から、22年目のことである。
明治維新の元勲らの功労により、かろうじて内紛を収め近代国家としての一歩を歩み出した我が国日本。しかし西洋列強に比べて国力は極めて微弱である。形の上では徳川幕府に政権を返上させたとは言え、国内の整備は未だ追いつかない。
政府に目を向けても、坂本竜馬が思い描いた新政府の理想像とは程遠く、薩長土肥を中心とした藩閥政治が専制的な力を持ち、幅を利かせている。
この状況下で第二の維新を志したのが、征韓論に敗れ政府を去った板垣退助らの自由民権運動である。彼は専制的藩閥政治を批判し、国会の開設と憲法の制定を求めて運動を興した。この運動が全国に拡大し、政府は国会の開設と憲法の制定を決断せざるを得なくなったのである。
大日本帝国憲法制定の背景にあった課題
では明治憲法(大日本帝国憲法)で何を定めるべきなのか。
先のコラムでも述べたが、日本の近代化(明治維新)はそもそも英米仏の市民革命とは決定的に意味が違う。英米仏が専制政治からの市民権の解放であったのに対し、明治維新は列強諸国に対する国防が最終的な目的だった。
そしてそのスローガンは、討幕派も佐幕派も「尊王攘夷」だった。もはや屋台骨が腐りつつあった徳川家は日本の求心力たり得ないが、日本には2000年以上万世一系で続く天皇家があるではないか。天皇を中心に日本国が一つにまとまろう。そして天皇を中心とした中央集権国家を作り、欧米列強からの侵略の危機を乗り越えよう、というのが明治維新の本願だったはずだ。
その思想を引き継ぐ明治新政府において憲法を定める。国家元首は天皇であり、国民には国防のための兵役の義務を課すのは当然の帰結だった。
(ちなみに、私は大日本帝国憲法下においても天皇陛下は現行憲法と同様、象徴的なお立場であることを自ら律され、専制権力を行使される事は一度もなかった、と考えている)
この当時の日本には、「市民権の確立」よりも「列強からの国防」が断然優先度の高いテーマだった。
この観点を抜きにして、日本国憲法=100点、大日本帝国憲法0点、と論じるのはいささか短慮に過ぎる、というのが私の考えだがいかがなものか。
【この記事の執筆者】
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◆プロフィール
奈良県橿原市 1975年生まれ
奈良県立畝傍高校卒 / 同志社大学法学部卒
◆奈良県橿原市議会議員/井ノ上剛(いのうえごう)公式サイト
◆介護職員実務者研修修了
◆社会保険労務士、行政書士
(執筆の内容は投稿日時点の法制度に基づいています。ご留意ください。)
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