日本国憲法成立の背景

井ノ上剛_いのうえごう_マッカーサー

ポツダム宣言の受諾

戦の勝敗が確定的となっていた昭和20年7月26日。連合国はポツダム宣言を発する。そこには

・武装解除
・民主主義の復活
・基本的人権の尊重
・戦争犯罪人の処罰
・政権樹立後の占領軍の撤退

が記されていた。

日本政府はこの宣言を重視しなかった。それがために、広島・長崎で何十万もの尊い命を失った。

結果8月14日ポツダム宣言受諾。翌15日天皇陛下の玉音放送を経て、日本は有史以降初めて国家主権を失う。

 

憲法改正の行方

GHQの占領政策の中で最大の課題は憲法改正だった。

極東の島国が理性を失い暴走した原因が、「軍部の独断を許した明治憲法の欠陥」にあるのは明らかだ。

マッカーサーは近衛、幣原に憲法改正を示唆した。

これを受けて日本政府は憲法問題調査委員会を設置した。代表は東京帝大教授松本蒸治(じょうじ)。顧問に同じく美濃部達吉。以下有識者多数。

これらのメンバーの熟慮をもってしても、改正案はマッカーサーの意に沿わなかった。改正案では、

・天皇の軍部統帥権
・天皇の統治権

など、依然として大権が天皇に委ねられたままだったのだ。

 

ちなみに、中学歴史教科書上位5社中4社は、GHQ(マッカーサー)の上記拒否事由を明らかにしている。1社はその事由を明らかにしないまま単に「GHQに拒絶された」と記している。4社が事実をより正確に記している言えよう。

 

話を戻す。

マッカーサーは昭和21年2月3日、ホイットニー民政局長に対して、日本政府へ示すための改正試案作成を命ずる。

そして9日後の2月12日、「総司令部案」が完成し、9カ月間の議論の末、日本国憲法として成立するのである。

 

日本国憲法は押し付け憲法か

同年11月3日に交付された日本国憲法は、単なる米国からの「押し付け憲法」か。

4月には初の男女完全普通選挙が実施され、我が国は民主化の第一歩を踏み出している。39名の女性国会議員も誕生している。

GHQの「総司令部案」に基づいているとはいえ、日本国憲法を「押し付け憲法」と短絡的に決めるのは、この時代を必死に生きた人々に対してあまりに不敬ではないか。

 

また、ホイットニー民政局長が

この総司令部案を受け入れないと天皇の身体の保障がないと発言した

と松本蒸治委員長は述べているが、同席した米国局員ケーディス大佐も、終戦連絡官の白洲次郎もそれを否定している。松本蒸治委員長の誤訳である。

 

先達は、建国以降初めての他国占領下で、採り得る最善策を選択したのだ。

焦土復興 そしてわれら 子孫のために

【この記事の執筆者】

井ノ上剛(いのうえごう)
◆プロフィール
奈良県橿原市 1975年生まれ
奈良県立畝傍高校卒 / 同志社大学法学部卒
社会保険労務士、行政書士
奈良県橿原市議会議員/井ノ上剛(いのうえごう)公式サイト
タスクマン合同法務事務所 代表

(執筆の内容は投稿日時点の法制度に基づいています。ご留意ください。)